大阪で、納骨・祈祷のお寺

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2014年3月5日

ご先祖様は身近な存在

日本民俗学の大家、柳田國男は著書「先祖の話」(ちくま文庫「柳田國男全集13」所収)で「古来日本人の死後観は、千数百年の仏教の影響を受けながらも、死ねば魂は山に登って行くという感じ方が、今なお意識の底にひそんでいる」ことを、数々の風習を根拠として挙げながら説いている。
松尾剛次氏は、「葬式仏教の誕生」(平凡社新書)の中で、「そもそも鎌倉仏教以前は、庶民の間では遺棄葬や風葬が一般的で、穢れに関わるとして、僧侶が葬式に従事することは大いにはばかられていた。そこで、仏教式の葬式を望む人々に対して、鎌倉仏教者(遁世僧)たちによって行われた革新的な活動が、葬式仏教だったのだ。それは、きちんとした葬送儀礼を望む人々の願いにこたえた革命的なことだった点に注意を喚起したい。」と論じておられる。
仏教の教義が葬式を執り行う根拠になり得るから、僧侶が葬式に従事したのではなく、民衆の要請に応えるかたちで、僧侶が葬式を執り行うようになったという歴史的経緯があったとするならば、古来日本人の持つ死後観と、仏教の教義との間には、多かれ少なかれ、矛盾が生じてしまっているのではないか。
例えば、私は、檀家さんから、「亡くなった方がよく夢に出てくるが、仏教の教えでは極楽浄土に行くことになっているのに、まだ成仏していないからではないか」と、聞かれることがある。
しかし、ご先祖様が、身近な存在であるからこそ家に仏壇を祀っているわけで、そのような、仏教の教義と日本人の古来からの信仰との矛盾が、人々を混乱させているとしたら残念なことである。
私は、日本人の先祖供養の習慣が、日本人のおもてなしの精神などの多くの美徳を生み出していると思っているので、仏教の教義と先祖供養との矛盾は矛盾としてきちんと説明し、仏教者が葬送儀礼を人々から託された責任として、先祖供養という素晴らしい日本人固有の信仰を継承させていかなければならないと考えている。