大阪で、納骨・祈祷のお寺

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2012年4月28日

私は、僧侶になる前の17歳の頃、教団を否定した孤高の宗教家クリシュナムルティ(1895~1986)の「生と覚醒(めざめ)のコメンタリー」という本に出会って、お釈迦様の教えとの共通点を感じ、当時は、彼も存命でしたので、現代にどのようなメッセージを送ってくれるのか注目していましたが、その2年後に亡くなってしまいました。

彼の言葉で印象に残っているのは、「思考は物質だから、考えることの多い人間はきわめて即物的である」という言葉で、禅の公案のように、今でも頭の中に残っています。

彼の著作を何冊か読んで、心洗われるような感動を受けましたが、時には、禅問答のようでもあり、簡単に、人生の答えを与えてくれるような親切さはなく、それが逆に、我々一人一人が人生と向き合って、問い続けていかなければならないのだという厳しさ、覚悟を教えられた気がします。私が、安易に、教祖様や占い師の先生に自分の人生を預けるようなことをしなかったのは、彼のお陰かもしれません。

彼が何か具体的な修行の実践方法を示したことはないようなのですが、心を観察することの大切さを語っていたのは、確かだと思います。このことが、お釈迦様との共通点だと、私が思った所以であり、よって、私は、心を観察することについて、いろいろと考えてきました。

心を観察するには、今現在の瞬間瞬間のありのままの現象を捉えていくことが重要なのではないか(仏教の諸行無常の教えにも通じるのは?)。不安や悩みは、過去を後悔することや未来を心配すること、つまり、過去と未来に縛られることに原因の多くがあるのだから、瞬間瞬間に集中することで、不安や悩みから解放されるのではないか。
瞬間瞬間に集中するには、当然雑念をなくさなければならない。雑念が起きるのは言葉によって連想や妄想が起こっているのだから、心の中でおしゃべりしないように気をつけることが大事なのではないか(悟りの世界は言葉を超越しているというのと通じる?)、などと、自分なりの確信はいくつか持っていました。

そんな中、5年ほど前に、より具体的に心を観察するための手がかりとなるのではないかという、一冊の本との出会いがありました。その本は、地橋秀雄氏の「ブッダの瞑想法~ヴィパッサナー瞑想の理論と実践」です。

特にラベリングという方法は、一般の方でも日常生活で実践可能かと思います。その方法とは、自分に起こっている現象、感覚、思考、感情を、次々とラベルを貼り付けるように単語化(実況中継に例えられたりしますが、私は指差し確認に似てると思います。)していって、連想や妄想が起こるのを防ぐというものです。これは、あまりにも簡単な説明ですので、興味のある方は、本を読んでみてください。

特に、怒りや緊張を感じたときに、ラベリングを実践すると、自分を客観視することが出来て、怒りや緊張がおさまり、現代人の心身をむしばむ、ストレスを溜め込まないことにつながるのではないかと思います。仏教の修行として、じっくりと取り組むべき瞑想法ですが、一般の方が、そのエッセンスを通じて、日常生活に生かすことも出来るのではないかと思います。

ヴィパッサナー瞑想法が、伝承されてきたのは、上座部仏教であり、上座部(テーラワーダ)仏教のお坊さんの著作も、最近は、たくさん出版されているので、現代人が求めていた教えだったといえるのではないでしょうか。

5年前に、初めて知った私も、坊さんとして不勉強きわまりないのですが、上座部仏教やヴィパッサナー瞑想が、日本で認知されたのは90年代に入ってからのことのようです。日本仏教は、大乗仏教の流れの中にあり、上座部仏教は、あまりにも注目されないできたといえるでしょう。

お坊さん以外の本では、精神科医である名越康文氏の「心がフッと軽くなる瞬間の心理学」がおすすめです。タイトルを見てピンときたので読んだのですが、やはり、初期仏教の瞑想の実践法について言及されていました。

「毎日の家事が大変だと、頭の中が次々と更新されるので、執着が起こらないが、今の時代は家事も楽で、自分の思考や空想に囚われる時間が増えている。」、「過去と未来に心を引きずられない、「今、ここ」の達人が幸福をつかんでいる。」といった指摘は、名越氏自身が、現代人の心の病と向き合っているだけに大いに参考になります。