大阪で、納骨・祈祷のお寺

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2014年3月17日

ようやく春めいてまいりました。大聖寺、不動寺檀信徒様に於かれましてはご健勝にお過ごしの事とお喜び申し上げます。

さて今は色々なことが取りざたされております。あくまで個人的なことですが、ここでは書くことが出来ませんのでご了承下さい。やはり情報化社会といいますか、、、すぐに噂は広まります。特に悪いことは、、『悪事千里を走る』というより、今は『悪事地球を一周する』という表現がふさわしいかもしれません。しかし嘘をつくと何れ自分に返ってきてしまいます。つまりここに題名の『嘘発着』という言葉が出てくるわけです。自分から発した嘘は形お変えて自分に着くというわけですね。あっ・・・あくまでもあの話だ、この話だなんて詮索しないでくださいね・・・

また嘘だけに関わらず悪いことをすれば形を変えて自分に返ってまいります。もちろん良いことも良い事が返ってまいります。出来れば良い事が返ってくるようになさってくださいね!!

一意見ですが完璧な人間は此の世にはいないでしょう・・・でも後ろ指をさされない生き方は出来るはずですから出来る限り胸をはれる人生を歩みましょう。もちろん私自身もですが・・・(笑)

話は変わりますが間の無く春のお彼岸がやってまいります。お墓にお参りされる方、大聖寺、不動寺の永代位牌にお参りされる方たくさんおられるかと思いますが、どうぞお気をつけてお参りなさってください。ご先祖様に日ごろの報告をするのもよいでしょう・・但し嘘はつかないように・・・

それでは皆様体調を崩さないようになさってくださいね。

 


2014年3月5日

日本民俗学の大家、柳田國男は著書「先祖の話」(ちくま文庫「柳田國男全集13」所収)で「古来日本人の死後観は、千数百年の仏教の影響を受けながらも、死ねば魂は山に登って行くという感じ方が、今なお意識の底にひそんでいる」ことを、数々の風習を根拠として挙げながら説いている。
松尾剛次氏は、「葬式仏教の誕生」(平凡社新書)の中で、「そもそも鎌倉仏教以前は、庶民の間では遺棄葬や風葬が一般的で、穢れに関わるとして、僧侶が葬式に従事することは大いにはばかられていた。そこで、仏教式の葬式を望む人々に対して、鎌倉仏教者(遁世僧)たちによって行われた革新的な活動が、葬式仏教だったのだ。それは、きちんとした葬送儀礼を望む人々の願いにこたえた革命的なことだった点に注意を喚起したい。」と論じておられる。
仏教の教義が葬式を執り行う根拠になり得るから、僧侶が葬式に従事したのではなく、民衆の要請に応えるかたちで、僧侶が葬式を執り行うようになったという歴史的経緯があったとするならば、古来日本人の持つ死後観と、仏教の教義との間には、多かれ少なかれ、矛盾が生じてしまっているのではないか。
例えば、私は、檀家さんから、「亡くなった方がよく夢に出てくるが、仏教の教えでは極楽浄土に行くことになっているのに、まだ成仏していないからではないか」と、聞かれることがある。
しかし、ご先祖様が、身近な存在であるからこそ家に仏壇を祀っているわけで、そのような、仏教の教義と日本人の古来からの信仰との矛盾が、人々を混乱させているとしたら残念なことである。
私は、日本人の先祖供養の習慣が、日本人のおもてなしの精神などの多くの美徳を生み出していると思っているので、仏教の教義と先祖供養との矛盾は矛盾としてきちんと説明し、仏教者が葬送儀礼を人々から託された責任として、先祖供養という素晴らしい日本人固有の信仰を継承させていかなければならないと考えている。