大阪で、納骨・祈祷のお寺

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2012年5月15日

平成24年5月13日、東京場所8日目で、横綱白鵬が3敗目を喫した。彼の近年の実績からすれば、信じられないことらしい。

例によってテレビでその敗因を探っていた。今場所は六大関になり、又、下位力士の追い上げにもひしひしと危機感を感じていた。その為、場所前の稽古も人一倍頑張っていたようだ。これだけの大横綱でもやっぱりその地位を守る為には、人知れぬ、努力を要求されるのだろう。大関だと負ければその地位を落ちればよいが、横綱にはその選択肢はたった一ツしかない。それは引退の二文字である。相撲協会の全責任を背負って立つ、この大横綱のプレッシャーたるや想像を絶するに余りある。白鵬の親方の談話によると、場所前の稽古も普段より頑張りすぎて、場所入り後は少し疲れが目立ったようだったとの事であった。

 過ぎたるは及ばざるが如しか?

つくづく凡人である事の、生き方を感じてしまう。毎日、飄飄と、ボンヤリ生きる事の幸せがある。日々、平凡に生きる事が本当に非凡に生きる事だと思う。私は休みに、ほとんど外出して、家にはいない。1人暮らしには、とりたててしなければならない用事もあまりない。

家に病人や要介護の人をかかえているとこうはいかないが、今は外出できる、喜びを楽しんでいる。

今日も、120円の切符を買って、JR東西線の加島駅のホームに立っている。

行き先は、東でも西でもよい、次に来た電車に乗るつもりだ。どうやら次の電車は木津行きらしい。久し振りに、京都の木津川に住む妹の家でも訪ねてみよう。


2012年4月28日

私は、僧侶になる前の17歳の頃、教団を否定した孤高の宗教家クリシュナムルティ(1895~1986)の「生と覚醒(めざめ)のコメンタリー」という本に出会って、お釈迦様の教えとの共通点を感じ、当時は、彼も存命でしたので、現代にどのようなメッセージを送ってくれるのか注目していましたが、その2年後に亡くなってしまいました。

彼の言葉で印象に残っているのは、「思考は物質だから、考えることの多い人間はきわめて即物的である」という言葉で、禅の公案のように、今でも頭の中に残っています。

彼の著作を何冊か読んで、心洗われるような感動を受けましたが、時には、禅問答のようでもあり、簡単に、人生の答えを与えてくれるような親切さはなく、それが逆に、我々一人一人が人生と向き合って、問い続けていかなければならないのだという厳しさ、覚悟を教えられた気がします。私が、安易に、教祖様や占い師の先生に自分の人生を預けるようなことをしなかったのは、彼のお陰かもしれません。

彼が何か具体的な修行の実践方法を示したことはないようなのですが、心を観察することの大切さを語っていたのは、確かだと思います。このことが、お釈迦様との共通点だと、私が思った所以であり、よって、私は、心を観察することについて、いろいろと考えてきました。

心を観察するには、今現在の瞬間瞬間のありのままの現象を捉えていくことが重要なのではないか(仏教の諸行無常の教えにも通じるのは?)。不安や悩みは、過去を後悔することや未来を心配すること、つまり、過去と未来に縛られることに原因の多くがあるのだから、瞬間瞬間に集中することで、不安や悩みから解放されるのではないか。
瞬間瞬間に集中するには、当然雑念をなくさなければならない。雑念が起きるのは言葉によって連想や妄想が起こっているのだから、心の中でおしゃべりしないように気をつけることが大事なのではないか(悟りの世界は言葉を超越しているというのと通じる?)、などと、自分なりの確信はいくつか持っていました。

そんな中、5年ほど前に、より具体的に心を観察するための手がかりとなるのではないかという、一冊の本との出会いがありました。その本は、地橋秀雄氏の「ブッダの瞑想法~ヴィパッサナー瞑想の理論と実践」です。

特にラベリングという方法は、一般の方でも日常生活で実践可能かと思います。その方法とは、自分に起こっている現象、感覚、思考、感情を、次々とラベルを貼り付けるように単語化(実況中継に例えられたりしますが、私は指差し確認に似てると思います。)していって、連想や妄想が起こるのを防ぐというものです。これは、あまりにも簡単な説明ですので、興味のある方は、本を読んでみてください。

特に、怒りや緊張を感じたときに、ラベリングを実践すると、自分を客観視することが出来て、怒りや緊張がおさまり、現代人の心身をむしばむ、ストレスを溜め込まないことにつながるのではないかと思います。仏教の修行として、じっくりと取り組むべき瞑想法ですが、一般の方が、そのエッセンスを通じて、日常生活に生かすことも出来るのではないかと思います。

ヴィパッサナー瞑想法が、伝承されてきたのは、上座部仏教であり、上座部(テーラワーダ)仏教のお坊さんの著作も、最近は、たくさん出版されているので、現代人が求めていた教えだったといえるのではないでしょうか。

5年前に、初めて知った私も、坊さんとして不勉強きわまりないのですが、上座部仏教やヴィパッサナー瞑想が、日本で認知されたのは90年代に入ってからのことのようです。日本仏教は、大乗仏教の流れの中にあり、上座部仏教は、あまりにも注目されないできたといえるでしょう。

お坊さん以外の本では、精神科医である名越康文氏の「心がフッと軽くなる瞬間の心理学」がおすすめです。タイトルを見てピンときたので読んだのですが、やはり、初期仏教の瞑想の実践法について言及されていました。

「毎日の家事が大変だと、頭の中が次々と更新されるので、執着が起こらないが、今の時代は家事も楽で、自分の思考や空想に囚われる時間が増えている。」、「過去と未来に心を引きずられない、「今、ここ」の達人が幸福をつかんでいる。」といった指摘は、名越氏自身が、現代人の心の病と向き合っているだけに大いに参考になります。


2012年3月6日

 この世の命有る者、人も鳥も草木も全てが平等に貰える物それが歳をとると言うことです。日本には歳の数えかたが二つ有りますそれが、満年齢と数え年です、昔の人は数えで、戦後の人は満で数えるようになったらしいです。この数え年と言うのは、満年齢に一歳たすと言いますが何故一歳たすのか?何時から数えるのか?それはお母さんのお腹に宿った時から数えて、生まれるまでに十月十日かかってこの世に生まれ、色んな事を経験し学んで歳をとりそして亡くなります。亡くなって満中陰(四十九日)まで所謂、十月十日たす四十九日でだいたい一年有ります、これが数え年で一歳たすのだと私は聞きました。葬儀の時の位牌や、厄年の時も基本数え年で書きますし。ちなみに位牌の行年、享年の意味は、人としてこの世で行をした命が行年で、享年とは天から授かった命だそうです。当たり前に歳をとるように見えても一日一日の積み重ねが有るから今の人生が有り、一人一人の苦楽が有るのではないでしょうか。

 


2012年2月22日

先日、2月3日に星祭りを無事むかえ、大勢の檀信徒の方々に来寺して頂き皆様に大変喜んで頂きました。

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CIMG0496.JPG お世話になりました役員の方々に感謝致します。2月3日の星祭り並びに毎月28日の不動尊縁日に、ご祈祷を申し受けております。ご不明な点が御座いましたら不動寺までご連絡下さい。

                                                            合掌

 


2012年1月15日

 皆様、新年明けましておめでとうございます。といいつつももう小正月でございます。月日の流れの速さを感じますね。今年も何卒よろしくお願い申し上げます。

 今回の更新のテーマ、色々考えまして(いつものことですが・・・)干支について少しお話いたします。

 今年は、『辰年』ですね。さて皆さん。(浜村淳風)干支は何時変わると思われますか?正月?いえいえ、節分で変わるんですね。ですから本当は、今『卯年』なわけです。この節分のときに星供(節分祈祷会)を執り行うわけです。つまり節分とは干支の大晦日というわけです。何で正月に祈祷して、また節分で祈祷するのかと疑問に思っていた方、これでご理解いただけたかと思います。(ほんまかいな)

 

 不動寺でも毎年星供を執り行っております。たくさんの方がお参りに来られ賑やかな年中行事の一つです。お寺の行事と言えば一般の方が中々参加しにくいイメージがあるかと思いますが、この機会に一般の方も不動寺にお越しいただき星供ご参加下さい。去年あまりよくない一年だった方、今年からなにかに打ち込もうとされている方、どの様なことでも構いません。お願い事を不動寺の星供の時、お申込下さい。当日の受付もさせて頂きます。

 ただここでお願いしたからOK!というわけでは有りません。日々の積み重ねが大事です。仏様、お大師様は見ておられます。楽はさせてくれません。ただ助けてはいただけます。

 今年一年、皆様にとって良い一年でありますことを住職ならびに僧侶一同、心よりお祈り申し上げます。                                    

   合掌

 

不動寺、大聖寺合同節分大法会のご案内

 

日時  二月三日(金)第一座 午前十時

 

           第二座 午後二時

 

場所  不動寺本堂に於いて

 

   (地図はトップページにございます)

 

※第二座終了契境内に於いて餅まき

 

(雨天の場合は本堂内於いて)