大阪で、納骨・祈祷のお寺

  • 亀老山 大聖寺
  • 大阪のお寺
  • 真言宗 不動寺

2014年8月21日

藤田紘一郎氏の「脳はバカ、腸はかしこい」を読んだ。

「脳はバカ、腸はかしこい」とは、一番分かりやすい例をあげると、脳は快楽の為に、暴飲・暴食したり、酒を飲んだり、タバコを吸ったりするが、腸は、体内に悪いものが入ってきても、文句も言わずに、せっせと消化・排出し、下痢という形で警告まで発してくれるということです。

私は、この本を読んで、全く、医学的なこととは関係ないのですが、「損得勘定は日本を滅ぼし、覚悟は日本を救う」という言葉が思い浮かびました。

頭は、理性的・合理的に考えることも出来ますが、大半の人は、快楽や損得勘定に振り回されています。しかし、それでも、自分は理性的・合理的・まともに考えていると、錯覚している人が大多数なのではないでしょうか。

それに対して、腹は、「腹を決める」「腹をくくる」という言葉が有るように、古来より、意志や覚悟を象徴する場所であり、東洋医学では「丹田」という下腹の内部にあり気力が集まる所が、健康に大きく関わっているとされています。

この本の中では、少子化・非婚化について、女性の結婚相手に求める条件が、三高(高収入・高学歴・高身長)といわれるほど高くなり、結婚を頭(損得勘定)で考えすぎるがゆえに、結婚に踏み切れなくなっているのではないか、と書かれています。その対策としては、愛すること、楽しむことを大切にする、頭で考えすぎないフランス人やフランスの法制度を見習うことなどが挙げられています。

私は、他に、自分の選択に対する覚悟の問題もあるように思います。昔は、自分の意志に反して、いいなずけと結婚させられたり、見合い結婚が多かったにも関わらず、今より離婚の数は少なかったというのは、現代人よりも昔の人の方が、腹が据わっていた(覚悟を決めていた)からではないでしょうか。

結婚を損得勘定でとらえることで、少子化・非婚化が加速されると、人口減少社会から、日本の国は地方から消滅していくことが、避けられない状況まできています。

もう一つ、私は、信仰も、覚悟が一番大事なのではないかと、思っています。

日本以外の多くの国の人々は、信仰は選択するものではなく、家や共同体・国の宗教を継承し信仰することに対して覚悟を決めているといえます。

最近、先祖供養の儀式である「葬式は要らない」などと言われますが、その論拠は、戒名料が高い、葬式に費用がかかりすぎるといった、損得勘定が基になっているようです。

宗教・信仰を、理性的・合理的に、選択できれば良いのですが、損得勘定を拠りどころにして、日本人の信仰の根幹であると私が考える「先祖供養」を捨てるならば、日本人の持つ信仰心・美徳・道徳心・倫理観・おもてなしの精神などは失われていくと思います。

おもてなしの精神をアピールし招致した、2020年東京オリンピックまでの間に、今後も、損得勘定で、先祖供養をないがしろにしていけば、日本人のおもてなしの精神のみならず、世界に誇る日本の治安も失われていくのではないかと、個人的には、危惧しています。

結婚と信仰について、損得勘定にまみれた脳を過大評価するよりも、腹をくくるという覚悟を持てば、日本は救われるのかもしれません。

 

 


2014年4月17日

新緑が目に眩しい、いい季節になりました。

 この間読んだ本の中に、仏教の話に結びつく面白い事が書かれていました。解説されたものを読むと必ず、七仏通誡の偈「普遍の真理」すなわち、諸悪幕作、衆善奉行(諸の悪をなさず、良い事を成せ)という事が書かれてあります。

価値観の多様化した現代は、昔ほどははっきり善悪を決めることはできにくくなっていると思いますが、悪い事に関してはどうやら「我」(エゴ)のそこには「自らの利だけを追い求める自己中心性」が根深くあると思います。毎日の様に倫理観の欠如から来る話題には、事欠かない状況です。

「この、こそっと自分だけが」という心理は、たとえばルールを正直に守る人達が多ければ多い程、ルールを破る少数である自分が、より多くの利益を得ることができるという経験的な知識に基ずいているので、自分以外の全員が常にルールを守って貰わなくて困るらしいのです。 自分の分け前が減るからかな。

少し話は難しくなりますが、「自分の様な人」がこの世に居ないという事から、、逆に利益を得ている人は、大袈裟にいうと「自分の様な人」がやがて、この世から一人も居なくなるという事を、無意識の内に願う様になるらしいのです。   ほんまかいな。

他人のマインドコントロールはそのからくりに気がつけば、解くことは出来るらしいのですが、この無意識の思いは心の呪縛となり、気が付かないだけに解くことは難しいそうです。 やがて悪果が、恐ろしいですね。 

その様にならない為には、「自分の様な人」ばかりであっても皆が愉快に暮らしていける、そんな太っ腹な思いを持って生きていくことが、やがて自分にとってのご褒美に預ることができるそうです。ありていに言えば「自分だけが美味しい処独り占め」とか「自分だけが良い子に」と言う様な思いを持ち続けると、それとは逆の意味の意識できないメッセージに呪縛され、さしずめ自縄自縛とでも言った状態に陥る事が多いのだそうです。 あー、怖い。

だからきっと昔の人はずっつと悪い事は避け、良い事を行いなさいと言い続けてきたのでしょう。 納得です。 潜在意識のパワーは恐るべしです。 やっぱり秘訣は「せこいよりも太っ腹」なのでしょう。 気をつけたいものですね。


2014年3月17日

ようやく春めいてまいりました。大聖寺、不動寺檀信徒様に於かれましてはご健勝にお過ごしの事とお喜び申し上げます。

さて今は色々なことが取りざたされております。あくまで個人的なことですが、ここでは書くことが出来ませんのでご了承下さい。やはり情報化社会といいますか、、、すぐに噂は広まります。特に悪いことは、、『悪事千里を走る』というより、今は『悪事地球を一周する』という表現がふさわしいかもしれません。しかし嘘をつくと何れ自分に返ってきてしまいます。つまりここに題名の『嘘発着』という言葉が出てくるわけです。自分から発した嘘は形お変えて自分に着くというわけですね。あっ・・・あくまでもあの話だ、この話だなんて詮索しないでくださいね・・・

また嘘だけに関わらず悪いことをすれば形を変えて自分に返ってまいります。もちろん良いことも良い事が返ってまいります。出来れば良い事が返ってくるようになさってくださいね!!

一意見ですが完璧な人間は此の世にはいないでしょう・・・でも後ろ指をさされない生き方は出来るはずですから出来る限り胸をはれる人生を歩みましょう。もちろん私自身もですが・・・(笑)

話は変わりますが間の無く春のお彼岸がやってまいります。お墓にお参りされる方、大聖寺、不動寺の永代位牌にお参りされる方たくさんおられるかと思いますが、どうぞお気をつけてお参りなさってください。ご先祖様に日ごろの報告をするのもよいでしょう・・但し嘘はつかないように・・・

それでは皆様体調を崩さないようになさってくださいね。

 


2014年3月5日

日本民俗学の大家、柳田國男は著書「先祖の話」(ちくま文庫「柳田國男全集13」所収)で「古来日本人の死後観は、千数百年の仏教の影響を受けながらも、死ねば魂は山に登って行くという感じ方が、今なお意識の底にひそんでいる」ことを、数々の風習を根拠として挙げながら説いている。
松尾剛次氏は、「葬式仏教の誕生」(平凡社新書)の中で、「そもそも鎌倉仏教以前は、庶民の間では遺棄葬や風葬が一般的で、穢れに関わるとして、僧侶が葬式に従事することは大いにはばかられていた。そこで、仏教式の葬式を望む人々に対して、鎌倉仏教者(遁世僧)たちによって行われた革新的な活動が、葬式仏教だったのだ。それは、きちんとした葬送儀礼を望む人々の願いにこたえた革命的なことだった点に注意を喚起したい。」と論じておられる。
仏教の教義が葬式を執り行う根拠になり得るから、僧侶が葬式に従事したのではなく、民衆の要請に応えるかたちで、僧侶が葬式を執り行うようになったという歴史的経緯があったとするならば、古来日本人の持つ死後観と、仏教の教義との間には、多かれ少なかれ、矛盾が生じてしまっているのではないか。
例えば、私は、檀家さんから、「亡くなった方がよく夢に出てくるが、仏教の教えでは極楽浄土に行くことになっているのに、まだ成仏していないからではないか」と、聞かれることがある。
しかし、ご先祖様が、身近な存在であるからこそ家に仏壇を祀っているわけで、そのような、仏教の教義と日本人の古来からの信仰との矛盾が、人々を混乱させているとしたら残念なことである。
私は、日本人の先祖供養の習慣が、日本人のおもてなしの精神などの多くの美徳を生み出していると思っているので、仏教の教義と先祖供養との矛盾は矛盾としてきちんと説明し、仏教者が葬送儀礼を人々から託された責任として、先祖供養という素晴らしい日本人固有の信仰を継承させていかなければならないと考えている。


2013年10月30日

先日、第3回大阪マラソン大会が行われた。一流選手に混じり有名、あるいは数多くの無明の市民ランナーたちが秋空の下それぞれの目標、目的をもち悲喜こもごものランを見せてくれた。大阪大会の特徴はランナーもさることながら、回りの観客達も応援をアピールして、くるところにあるそうだ。「終わったら飲み放題!」とビールのジョッキを画いたプラカード、「やればできる子や」「苦るしかったら、代わったろか」「男前だけ手を振って」「足の痛みは気のせいだよ」「ただいま婚活中」等々勇気づけてくれる笑いを含んだプラカードが数多くあった。いかにも大阪という感じである。人生には、常に喜怒哀楽がついてまわる。避けて通れないのである。この喜・怒・哀・楽の一字一字の占める割合の大小によって人の生き方は、随分違ったものになってくる。出来るなら怒哀を忘れ、市民マラソンの応援団のプラカードのように喜楽に肩肘はらず笑いとユーモアにあふれる人生ランを送りたいものである。