大阪で、納骨・祈祷のお寺

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髪なし007リレーブログ | 永代供養・納骨のお寺なら【大聖寺/不動寺】

2014年5月31日

先日、納骨で久しぶりに高野山にお参りしてきました。残念ながら天候に恵まれず、そのせいか気温も11℃程度と大阪に比べるとやはり寒く、「流石は高野山」と言ったところでしょうか(笑)

 

納骨へ行った日がお大師さんの縁日(報恩日)と言う事もあり、天気が悪い中でも多くの方がお参りになっておられました。もしかすると、今年は四国が霊場開創1200年を迎え、更に来年は高野山が開創1200年を迎えるという事も影響していたのかもしれません。

 

高野山内では道路整備が行われており、大伽藍の中門も完成が近づいているように見え、着々と準備が進んでいる事を感じました。

 

また、来月(六月)には、お大師さんの生誕祭である青葉祭りも行われます。

普段は中々お参り頂く事も難しいとは思いますが、こういった行事を一つの良い機会と捉えていただき、是非、御山にお参り頂ければ、と思います。


2014年4月17日

新緑が目に眩しい、いい季節になりました。

 この間読んだ本の中に、仏教の話に結びつく面白い事が書かれていました。解説されたものを読むと必ず、七仏通誡の偈「普遍の真理」すなわち、諸悪幕作、衆善奉行(諸の悪をなさず、良い事を成せ)という事が書かれてあります。

価値観の多様化した現代は、昔ほどははっきり善悪を決めることはできにくくなっていると思いますが、悪い事に関してはどうやら「我」(エゴ)のそこには「自らの利だけを追い求める自己中心性」が根深くあると思います。毎日の様に倫理観の欠如から来る話題には、事欠かない状況です。

「この、こそっと自分だけが」という心理は、たとえばルールを正直に守る人達が多ければ多い程、ルールを破る少数である自分が、より多くの利益を得ることができるという経験的な知識に基ずいているので、自分以外の全員が常にルールを守って貰わなくて困るらしいのです。 自分の分け前が減るからかな。

少し話は難しくなりますが、「自分の様な人」がこの世に居ないという事から、、逆に利益を得ている人は、大袈裟にいうと「自分の様な人」がやがて、この世から一人も居なくなるという事を、無意識の内に願う様になるらしいのです。   ほんまかいな。

他人のマインドコントロールはそのからくりに気がつけば、解くことは出来るらしいのですが、この無意識の思いは心の呪縛となり、気が付かないだけに解くことは難しいそうです。 やがて悪果が、恐ろしいですね。 

その様にならない為には、「自分の様な人」ばかりであっても皆が愉快に暮らしていける、そんな太っ腹な思いを持って生きていくことが、やがて自分にとってのご褒美に預ることができるそうです。ありていに言えば「自分だけが美味しい処独り占め」とか「自分だけが良い子に」と言う様な思いを持ち続けると、それとは逆の意味の意識できないメッセージに呪縛され、さしずめ自縄自縛とでも言った状態に陥る事が多いのだそうです。 あー、怖い。

だからきっと昔の人はずっつと悪い事は避け、良い事を行いなさいと言い続けてきたのでしょう。 納得です。 潜在意識のパワーは恐るべしです。 やっぱり秘訣は「せこいよりも太っ腹」なのでしょう。 気をつけたいものですね。


2014年3月17日

ようやく春めいてまいりました。大聖寺、不動寺檀信徒様に於かれましてはご健勝にお過ごしの事とお喜び申し上げます。

さて今は色々なことが取りざたされております。あくまで個人的なことですが、ここでは書くことが出来ませんのでご了承下さい。やはり情報化社会といいますか、、、すぐに噂は広まります。特に悪いことは、、『悪事千里を走る』というより、今は『悪事地球を一周する』という表現がふさわしいかもしれません。しかし嘘をつくと何れ自分に返ってきてしまいます。つまりここに題名の『嘘発着』という言葉が出てくるわけです。自分から発した嘘は形お変えて自分に着くというわけですね。あっ・・・あくまでもあの話だ、この話だなんて詮索しないでくださいね・・・

また嘘だけに関わらず悪いことをすれば形を変えて自分に返ってまいります。もちろん良いことも良い事が返ってまいります。出来れば良い事が返ってくるようになさってくださいね!!

一意見ですが完璧な人間は此の世にはいないでしょう・・・でも後ろ指をさされない生き方は出来るはずですから出来る限り胸をはれる人生を歩みましょう。もちろん私自身もですが・・・(笑)

話は変わりますが間の無く春のお彼岸がやってまいります。お墓にお参りされる方、大聖寺、不動寺の永代位牌にお参りされる方たくさんおられるかと思いますが、どうぞお気をつけてお参りなさってください。ご先祖様に日ごろの報告をするのもよいでしょう・・但し嘘はつかないように・・・

それでは皆様体調を崩さないようになさってくださいね。

 


2014年3月5日

日本民俗学の大家、柳田國男は著書「先祖の話」(ちくま文庫「柳田國男全集13」所収)で「古来日本人の死後観は、千数百年の仏教の影響を受けながらも、死ねば魂は山に登って行くという感じ方が、今なお意識の底にひそんでいる」ことを、数々の風習を根拠として挙げながら説いている。
松尾剛次氏は、「葬式仏教の誕生」(平凡社新書)の中で、「そもそも鎌倉仏教以前は、庶民の間では遺棄葬や風葬が一般的で、穢れに関わるとして、僧侶が葬式に従事することは大いにはばかられていた。そこで、仏教式の葬式を望む人々に対して、鎌倉仏教者(遁世僧)たちによって行われた革新的な活動が、葬式仏教だったのだ。それは、きちんとした葬送儀礼を望む人々の願いにこたえた革命的なことだった点に注意を喚起したい。」と論じておられる。
仏教の教義が葬式を執り行う根拠になり得るから、僧侶が葬式に従事したのではなく、民衆の要請に応えるかたちで、僧侶が葬式を執り行うようになったという歴史的経緯があったとするならば、古来日本人の持つ死後観と、仏教の教義との間には、多かれ少なかれ、矛盾が生じてしまっているのではないか。
例えば、私は、檀家さんから、「亡くなった方がよく夢に出てくるが、仏教の教えでは極楽浄土に行くことになっているのに、まだ成仏していないからではないか」と、聞かれることがある。
しかし、ご先祖様が、身近な存在であるからこそ家に仏壇を祀っているわけで、そのような、仏教の教義と日本人の古来からの信仰との矛盾が、人々を混乱させているとしたら残念なことである。
私は、日本人の先祖供養の習慣が、日本人のおもてなしの精神などの多くの美徳を生み出していると思っているので、仏教の教義と先祖供養との矛盾は矛盾としてきちんと説明し、仏教者が葬送儀礼を人々から託された責任として、先祖供養という素晴らしい日本人固有の信仰を継承させていかなければならないと考えている。


2014年1月21日

新年明けましておめでとうございます。 松の内も過ぎ皆様は仕事に学業にと日々精進されていることと思いますが、当寺院では来たる2月3日の節分・星まつりに向けての準備をさせて頂いております。 皆様新年を迎えられ今年の目標などを神社仏閣にて祈願された方もいらしゃると思いますが、そうでない方、これからの方はぜひ当寺院にて御祈願されてみてはいかがでしょう。 

 

日時 2月3日 14時より法会  15時頃より餅まき  

ぜひ多くの方の御参加をお待ちいたしております。                     合掌